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「空気の研究」 山本七平 著  読書ノート 1983年文春文庫

学者でなく在野の零細出版社のオヤジのとっても鋭い日本人論。田中角栄問題、小沢一郎裁判問題、原発問題等、明治以来世間様を騒がせた種々の事を考え直させる論考です。以下主要点、抜粋
「…そして戦後その理由を問えば、その返事は必ず『あのときの空気では、ああせざるを得なかった』である。…そして彼を強制したものが真実に『空気』であるなら、空気の責任は誰も追及できないし、空気がどのような論理的過程を経てその結論に達してかは、探求の方法がない。だから『空気』としか言えないわけだが…」 「…『空気』とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗 空気罪』で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。…だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明できないから、『空気』と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断基準と、空気的判断基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、『空気が許さない』という空気的判断基準である。大和(戦艦)の出撃はそのほんの一例にすぎない。」 
「福沢諭吉…かれだけでなく、あらゆる意味の明治的啓蒙家が行ったことは、下手なガンの手術と同じで、『切除的否定』で『ないこと』にしたものが、逆に、あらゆる面に転移する結果になってしまった。さらに悪いことに、戦後もう一度、同じような啓蒙的再手術をやっている。そのため、科学上の決定までが空気支配の呪縛をうけ、自由は封じられ、科学的根拠は無視され、…」
 「…『天皇制』とは何かを短く定義すれば、『偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情移入によって生じる空気的支配体制』となろう。…偶像化できる対象は何も像や人間だけではない。言葉やスローガンも、その意味内容とは関係なく偶像化できる… 」
「ある一言が『水を差す』と、一瞬にその場の『空気』が崩壊するわけだが、その場合の『水』は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人々をを現実に引き戻すことを意味している。」 「…『全体空気拘束主義者』は『水を差す者』を罵言で沈黙させるのが普通である。 しかし、現状からの脱却は、この『通常性』を基盤としない限り成り立たない。どのような『空気』を盛り上げて『水を差す者』を沈黙させても、『通常性』は遠慮なく『水』を差しつづけるのである。われわれは今まで自己の通常性を無視して、『空気』さえ盛り上げれば何かができるような錯覚を抱きつづけてきた。太平洋戦争とは、まことに痛ましい膨大なその大実験である。」 「…たとえば内村鑑三はこの作用を一種の腐食にたとえ、日本は雨が多いから、外来のどんな思想や制度もたえず『水』を差し続けられて、やがて腐食されて実体を失い、名のみ残って内容は変質し、日本という風土の中に消化吸収されてしまうという、面白い観察を述べている。」 「通常性の基本の第一にあげられるのが、『日本的情況倫理とその奥にある論理』なのである。…日本的情況倫理は常に、こういう場合、『個人』を無視する。…特攻のリンチへの非難は当然に共産党のリンチへの間接的弁護になると、心から信じて疑わない。なぜそうなるか。理由の一つは、『情況への対応』だけが『正当化の基準』とされるからであろう。…『情況に対する自分の対応の仕方は正しかった』従ってその対応の結果自動的に生じた自分の行為は正しかった。それを正しくないというなら、その責任は『自分が正しく対応しなければならなかった』苛烈な情況を生み出した者にあるのだから、責任を追及されるべきはその者であって、自分ではない、という論理である。 そしてこの考え方の背後にあるものは実は一種の『自己無謬性』乃至は『無責任性』の主張であり、情況の創出には自己もまた参加したのだという最小限の意識さえ完全に欠如している状態なのである。…従って自己の行為への責任の否定である。…人間は一定の情況に対して、平等かつ等質に反応するものと規定してしまう。これは後述する『日本的平等主義』に起因しているのであろう。」 
「情況倫理は情況を設定しうる一定の基盤がないと成り立たない。一君万民の原則、簡単に言えば、一教師・オール3生徒であれ、一委員長・オール3党員であれ…一つの固定集団が一定の情況を創造しなければ成立し得ないわけである。この点、情況倫理とは、集団倫理であっても個人倫理ではなく、この考え方は、基本的には自由主義とも個別主義とも相容れない。そしてそういう意味では、一種の『滅私的平等』の倫理であり、そのことは『オール3』という評価法にそのまま表れている。 この発想の基本は戦前も戦後も変化なく、変わったのは『表現の方法』だけ、いわば『評価する者の絶対性とその者による情況の恣意的創出』を前提としなければならぬこと、……従って『空気』を創出しているものも、結局は『水=通常性』なのであり、われわれは、この空気と水の相互的呪縛から脱却できないでおり、この呪縛の中には固定的規範は入り得ないわけである。」 
「…30年前、一学期に黒板に『大和魂』と書いた教師が二学期に黒板に『民主主義』と書いたからといって、何かの変化が起こるはずがない。教師も生徒もその通常性(日常性)においては数ヶ月前のままであるのが当然である。変わったものは、この通常性の上に立っていた一つの虚構、…古い虚構も新しい虚構もともに虚構だから、黒板の文字を書きかえればそれですむ。…『一君万民』『一教師・オール3生徒』の平等主義と情況倫理は絶対に切り離せないわけである。」
「日本の場合、その通常性に基づいて一つの秩序ができあがるには、まず『空気の醸成』とそれを維持する『父と子の隠し合い』(日本的儒教倫理)の真実の中に、これを求めざるを得ない。…意識的に求める必要はなく、その通常性に基づいて行動していけば、否応なしに、この秩序が出来あがって行き、その秩序の中に安住していれば、それが普通の状態だということである。」
「人は、論理的説得では心的態度を変えない。特に画像、映像、言葉の映像化による対象の臨在観的把握が絶対化される日本においては、それは不可能と言ってよい。」
「徳川時代と明治初期には、少なくとも指導者には『空気』に支配されることを『恥』とする一面があったと思われる。『いやしくも男子たるものが、その場の空気に支配されて軽挙妄動するとは…』…ところが昭和期に入るとともに『空気』の拘束力はしだいに強くなり、いつしか『その場の空気』『あの時代の空気』を一種の不可抗力と考えるようになり、同時にそれに拘束されたことの証明が個人の責任を免除するとさえ考えられるに至った。」
「結局、民主主義の名の下に『消した』ものが、一応は消えて見えても、実体は目に見えぬ空気と透明の水に化してわれわれを拘束している。いかにしてその呪縛を解き、それから脱却するか。それにはそれを再把握すること。それだけが、それからの脱却の道である。」 23/10/24
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【山好き、旅好きの団塊世代日記】 当ブログは2007/1/29に運営開始いたしました!





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プロフィール

高田 学

Author:高田 学
少年時代は海と戯れ鎌倉育ち、故郷を離れ北海道で学業。その後東京にて工務店経営。
環境(省エネ)には特に詳しい。廃業後自由人。

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