連休最後の日5/6日に朝7時の新幹線で燕三条で在来線に乗り換えて、弥彦まで行って、そこから6km・2時間半、雨の中を歩いて良寛さんが20年以上暮らした五合庵のある国上寺まで歩いた。
田植えが始まってる一面田んぼの中の国道を良寛さんが托鉢(物乞い)に歩いただろう道を蛙の鳴き声を聞きながら、とぼとぼ歩いた。まず、国上寺の森の中にある乙子神社の小さな境内にある58歳から68歳まで良寛がいた草庵を鬱蒼とした杉林のなかで、誰一人いない中で拝観させて頂いた。今でさえ寂しい山の中、当時は察するに余りある。それから森の中の小道を歩き、五合庵に着いた。8帖?ひと間の藁葺きの庵である。
それからバスがないから仕方なしに(歩けば良いのに!) タクシーで分水駅まで乗り、3時間に1本しか走ってない越後線に乗車し、南に五駅の出雲崎駅で下車し、良寛の生誕の地である、良寛堂、良寛記念館を訪ねた。交通の便なく、またタクシーに乗り小島谷部落の「良寛の里美術館」を訪ねた。来館者は私一人のようで、美術館の人が車で隆泉寺の良寛の墓、木村邸等を案内してくれた。出雲崎町の隣町の西山町には田中角栄記念館がありますよ、見てくださいと言われたが、日帰り予定だし、角栄記念館は次回(まず行かないな)にした。角栄さんはおらが町に科学技術の最先端の原発(柏崎刈羽)を持ってきて町を潤したんだと、自慢だったのでしょう。世の中みんな「金」、お礼の表現でさえ「金」でしかできなかった角栄さんと、清貧を旨とし「托鉢」で生きていた良寛さんと180度違いますが、同じように土地の人に慕われている。人の思想の根っこの部分で同じ様な部分があるのかしら?不思議です。
作家、中野孝次は言う「良寛は無所有こそ自由に最も近く、草庵の簡素こそ自然と最も共感しうる生であることをその詩や歌にうたっている。山川草木がその心であり、蛙が鳴き鳥がうたうのが自分なのである。」 そんなような良寛の詩
『 生涯 身を立つるに 懶(モノウク)く / 騰騰 天真に任(まか)す / 嚢中(ノウチュウ) 三升の米
炉辺 一束の薪(タキギ) / 誰か問わん迷悟の跡 / 何ぞ知らん名利の塵 / 夜雨 草庵の裏 /
雙脚 等間に伸ばす 』
行き帰りの列車の中で 『昭-田中角栄と生きた女』 佐藤あつ子 著 を読んだ。
「越山会の女王」こと佐藤昭子の娘・田中角栄の娘(メカケの子)である佐藤あつ子が母・佐藤昭子と父・角栄と自分との愛情の絡み合いを書いた本です。 それにしても、角栄さん神楽坂の芸者さん辻さんと(こちらの子は認知)、金庫番の佐藤昭子さんとそれぞれ子供を作りたっぷり愛情を注いだようで゛、ようやるわ! きっとほかにも女作って子供産ました子がいそうですよ。
そういえば、良寛さんも70歳のとき30歳の貞心尼と相聞歌を交わす恋仲になったとか!
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