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「南京事件」笠原十九司 著 岩波新書 読書ノート

☆ 「南京事件」は先の大戦の本質?が詰まっていそうです。その事件の評価のあり方で、あなたの思想・哲学がわかるような気がします。まずは、しっかりとした事実認識を。
☆ 自分なりの歴史の復習 1874明治7年 征台の役・台湾に出兵・琉球処分(併合) 1894明治27年 日清戦争―朝鮮への利権争い、遼東半島・台湾の割譲と賠償金をとる。植民地を持つ・大陸進出 1904明治37年日露戦争―清国(中国)への利権争い 1910年韓国併合 1928昭和2年満州・張作霖謀殺事件 1931昭和6年柳条湖事件・満州事変始まる、関東軍参謀下克上的独走・石原莞爾等謀略、満州国設立。マスコミ世論誘導で軍事行動万歳 1937年昭和12年7月盧溝橋事件・日中戦争(宣戦布告無し)始まる。

序より「…『歴史書』として、南京事件の原因と経過およびその全体像の叙述を試みる。そしてさらに、今後の日本国民の南京事件認識、戦争認識のありかたを問う…」
《『南京虐殺』はいかに知れたか、論争になったか》
・ 東京裁判A級戦犯1948年11月13日朝日新聞《南京の残虐行為》松井石根、絞首刑と記事
・ 南京軍事法廷B級戦犯、小さく朝日新聞にて、第6師団長・谷寿夫、110人斬り競争をした向井敏明、野田毅、300人斬りの田中軍吉 が処刑 「日本国民の多くは、東京裁判と南京軍事法廷によって、初めて南京事件の存在を知らされ、両裁判で5名の元軍人が処刑されたほどの残虐事件であったことに、一時は大きな衝撃を受けたが、戦後の日本国民に加害の歴史を直視することを避けてきたこともあって、…しだいに国民の記憶からも消えていった。」その後1970年代、家永教科書裁判等を通して、『南京大虐殺論争』が、現在でも継続している。

1937年8月15日 宣戦布告なき首都・南京爆撃、『海の荒鷲部隊』の南京渡洋爆撃 に対してマスメディアと国民の熱狂と支持は、南京政府との平和解決を考えていた陸軍中央の不拡大派(石原莞爾等)の威信と影響力を削ぎ、南京政府の『屈服』を叫ぶ拡大派が主流をしめる。 
「かつて、関東軍参謀時代、中央・上層の統制を無視し、謀略による柳条湖事件を引き起こして満州事変を主導し、それが成功を収めたとして行賞をうけて中央要職に栄転した石原莞爾が、その自らの行為によって決定的に助長した陸軍の統制の弛緩、いわゆる下克上の風潮に直面するという皮肉な報復をうけたのである。」石原莞爾の配下ではあった「武藤章を典型として、独断専行をものともしない下克上の野心をもった中堅幕僚たちが、拡大派の主力であった。」
「…蒋介石との和平交渉を本格的に推進するが、松井司令官は、国民政府との和平交渉など念頭になく、やがて参謀本部の統制を無視して上海派遣軍を独断で南京攻略へと向かわせることになるのである。」…成績優秀であったにも関わらず、同期の真崎・荒木等とちがい出世できずに現役を引退していたところ「松井は59歳、陸軍最長老の大将として軍功を上げる最後のチャンスが到来したのである。松井司令官の野心を知りながら、陸軍首脳が命令・任務の厳守を松井に確約させなかった、…このときの戦争指導者の無責任な対応が、南京事件を引き起こす要因のひとつになる。南京事件のもう一つの要因として、日中戦争は『支那膺懲』(懲らしめる) のための戦争であるという意識が、軍隊はもちろん国民にも浸透していたことがあった。『支那膺懲』を目的にかかげ、国民の戦意高揚を煽り、挙国一致の国民総動員を呼びかけていったのが、近衛文麿首相であった。」

1937年11月13日 やつと上海制圧。
◎ 南京攻略に反対した参謀本部
「中国一撃論を強硬に主張して、下克上的に石原莞爾作戦部長を『追い出した』武藤章としては、自分の拡大戦略の正しさを現実の作戦で実証して見せる必要に駆られていたことも事実である。それは南京攻略を強行して蒋介石政府を屈伏させることだった。」
《軍紀頽廃の軍隊を南京攻略へ》参謀本部の意向に反して。
「中支那方面司令部も上海派遣軍と第10軍との作戦をいっとき統一指揮するだけのものとされた。」つまり、上海付近での決着の作戦で「それ以上の奥地に対する作戦を指揮する場合に必要な兵站機関(軍紀等を取り締まる法務部、兵器部等)を持っていなかった。のちに南京攻略戦を作戦指揮することになるのは、まさに常軌を逸した作戦行動だったのである。」
「陸軍中央において、武藤章とともに拡大派の中心であった田中新一軍事課長でさえ、上海派遣軍の深刻な軍紀頽廃の現状と原因をほぼ正確に把握していた。ひとつは高年齢者の多い予備役兵中心の部隊ゆえの士気の低さと軍紀弛緩、それゆえの軍紀逸脱行為・不正行為の頻発の実態。部隊を指揮する実力権威のない将校・下士官の問題。もう一つは、食料・軍需品を供給・補充する後方機関が作動してなく、住民から略奪し、さらには暴行にまでおよんでいる軍紀破壊の問題である。(上海攻略戦の全過程は、南京事件そのものを生み出す土壌を軍内部に作りあげてゆく過程でもあった。吉田裕) いずれも、陸軍中央が予期も準備もしなかった日中全面戦争の開始によって、急遽、予後備役兵を招集して臨時の特設師団を編成し、軍隊の装備も将兵の訓練・教育も不十分なままに、上海攻略戦に派兵、投入したにわか作りの部隊であったことが根本的な要因になっていた。」
「大本営の南京攻略の正式命令もないまま、参謀本部の統制に反するかたちで、中支那方面軍司令部(松井石根大将)が独断専行で発動した南京侵攻作戦…、武藤章参謀副長の挑発は①華北から上海戦へまわされて疲弊しきってた第16師団を南京進撃をけしかけた。②前線部隊に『南京一番乗り』を煽った。そのため補給を無視して強行軍を余儀なくされた。「中支那方面軍の兵士の多くが、予備役兵・後備役兵゛、妻子を残しての出征であった。上海戦が終れば帰還できると思いきや、そのまま南京攻略に駆り立てられた不満や憤りが兵士間に燻っていた。それらの不満の捌け口として、軍の上官たちは性的蛮行を『兵の元気をつくるに却って必要』といった理由で黙認する風潮があった。『中国女性を征服し、力づくで女をものにするという戦場の役得としての婦女陵辱行為が兵士を南京攻略に駆り立てるために、黙認された』軍医早尾中尉の言。上海から南京まで300km、蛮行の跡をのこして進軍。

「…『首都を占領すれば中国は屈伏する』と思い込んだ政府・国民(マスコミの戦意高揚)の期待が高まるなかで、総兵力16万とも20万ともいわれた中支那方面軍の大軍は、正式に南京攻撃線に突入していく。-大本営は、中支那方面軍の独断専行を正式に追認した。」
上海から南京への進軍中 第16師団12月24日状況報告「今次作戦間、兵馬の給養は現地物資をもってこれに充つるの主義を採り、もつて迅速なる機動に応ぜんと企図せしが、幸いに富裕なる資源により、おおむね良好なる給養を実施しえたり」(南京戦史資料集)より。つまり現地・敵地からの食糧等調達を作戦としていた。つまり食糧略奪をして進軍して行った。略奪に応じない農民は処分した、女性は強姦した、そして家を焼き払って、進軍して行った。「しっかりした指揮官のいる部隊は、非戦闘員は殺害しないという軍律を守っていた。」が。「…中支那方面軍が各部隊に食糧現地徴発=略奪を強いたことじたいが、陸軍刑法(第86条)に違反する行為の強要であった。方面軍司令部が軍紀を弛緩させる要因をつくったのである。責任は大きい」

「南京攻略戦において日本軍は、上海戦から撤退していく中国軍の追撃殲滅戦と、南京防衛軍にたいする包囲殲滅戦という戦法をとった。投降兵・敗残兵・捕虜であろうとも、中国兵であった者は(そう思われた者もふくめて)殲滅、つまり皆殺しにするということである。」
1937年12月11日 メディア誤報で、日本で南京陥落祝賀提灯行列。従軍記者多数いるのに、アホカ!
12月13日 南京陥落 同17日南京城・入城式を強行。皇族・朝香宮中将も列席ということで、なおさら『残敵大掃蕩』が大規模に激列に行われた。松井石根のカッコツケの式典。
南京防衛軍司令長官・唐生智と中支那方面軍司令官 両者とも愚者で南京事件の犠牲者を多くした。共通点①経験と実力なし ②先見力・予想力の欠如 ③野心と功名心のみ過大 ④司令長官としての権威なく、指揮系統に不統一と不徹底 ⑤病弱
唐生智は敗北がわかった時点で、自分だけ逃げて、兵をうまく退却させなかった。多くの敗残兵を城内に残す結果となり、死者を増やした。

《南京陥落からの6週間程度の間の、日本軍の中国の投降兵・敗残兵・捕虜そして便衣兵や市民への殺害が南京事件・虐殺と言う。》
中支那方面軍司令部は南京城入城前に『南京城の攻略及び入城に関する注意事項』を下達した。。内容は皇軍として模範足るべき、支那軍民が感心するぐらいの軍紀風紀を。掠奪行為をしたら厳罰、
徹底・厳守されていれば、南京事件はおこらなかったはずである。」☆否定派は皇軍は守られていたから、虐殺はなかった。皇軍は偉いんだ!というのかな?
うがった見方をすれば、守れっこないと思ったから、この『注意事項』を出したとも思われる。(食糧は補給せずに徴発=略奪をおこなわせたのは司令部であったし…司令部は取り締まる法務部を備えていないし、必要な憲兵隊も、持っていなかった。…ことごとく破られるままにしたことの『不作為』の責任は大きい。…『注意事項』が空文化された根本原因は、常軌を逸した無謀な南京攻略作戦そのものにあった。」歩兵第六旅団長秋山少将は『南京城内掃蕩要領』等で、上記『注意事項』を無視した次のことを指示した。①遁走せる敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるをもって、その疑いあるものはことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す。②青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし。(南京戦史資料集) 『便衣兵』は軍服でなく民間人の服を着ている『私服兵』『ゲリラ兵』をさした(南京には本来の《便衣兵》は存在しなかった)。『便衣兵』と認定するには武器携帯を確認する必要があったが、上のような指示は、いっぱんの青壮年男子を敗残兵とみて『掃蕩』の対象にすることを意味した。しかも『逮捕監禁』といっても、日本軍は『捕虜は作らぬ方針』であった。歩兵第30旅団命令『各隊は担当区域を掃蕩し支那兵を撃滅すべし。各隊は師団の指示あるまで俘虜を受けつくるを許さず』(同資料集) 投降兵、敗残兵を捕虜としないで、殺害せよというのは、第16師団の方針であった。…日本軍だって食糧補給がなく現地徴発=略奪で食をつないでいるくらいだから、捕虜にしても食わせるものがない、だから始末=殺害してしまえ、ということである。」「…第66連隊のように助命すると約束して投降を呼びかけて捕虜にし、収容してのちに刺殺した…」
「また、スティール記者は『日本軍はしらみつぶしに家々を捜索して生き、多数の便衣兵容疑者を捕らえていた。これらの多数の縛られた者たちが一人ひとり銃殺されていき…』…スティール記者のいう、『便衣兵容疑者』の殺戮が、民間人の犠牲を大きくした。」

戦火から市民・難民を守るため、南京城内に南京安全区国際委員会を組織した外国人によって、南京難民区が設定された。日本軍はそこには、さすがに戦闘行為はしなかった。しかし『敗残兵狩り』『便衣兵狩り』は徹底的に行われ、安全区に逃げ込み武装解除して命は保障されると思った中国軍の多くが犠牲になった。南京難民区では、ジョン・ラーべ以下多くの外国人が活動し、日本軍の行動を報告記録している。
12月17日以後日本兵にとり《休養の十数日》ができ、「無理難題の南京攻略を強いた将兵の憤懣・反発の『ガス抜き』としてあるいは『慰労』として、多くの部隊が南京城内に進駐し、勝利者、征服者の『特権』として徴発、略奪、殺戮、暴行、放火などの不法行為に走るのを黙認、放任するかたちになった。
また中国軍が強行した『清野作戦』-日本軍に使われないように前もって建物等を燃やしておく―は、いっそう略奪行為を激しくさせた。

《戦略的に誤りだった南京攻略戦》 「南京攻略戦はもともと参謀本部の作戦計画になかったものを、中支那方面軍司令部と参謀本部の下村部長らの拡大派とが策応して強行し、それを昭和天皇が追認、近衛内閣も追随し、さらにマスメディアが、南京を攻略すれば中国は容易に屈伏して戦争は勝利するかのような安易な期待感を流布した。日本国民は、『南京に日章旗が翻る時』が戦争終結であるかのように報道する新聞記事に熱狂し『勝った!勝った!』と国をあげて祝賀行事を展開した。しかし、南京陥落後も蒋介石は下野せず、国民政府は屈伏しなかった。…ここに、武藤章や松井石根らの中国一撃論は完全に失敗したのだった。…中国が屈伏するまで戦争を拡大・継続していくという決定をしたのである。この政府と軍中央との決定は、日本国民を長期日中戦争の泥沼に引きずりこんでいく決定的な契機となった。」

《松井石根司令官の解任》 …「外交ルートを通じても、南京事件の事実が世界に知られるようになっていた。…陸軍中央でも密かに問題にするようになった。真崎甚三郎大将は、日記に『軍紀風紀頽廃し、これを建て直さざれば真面目の戦闘に耐えずということに帰着せり。強盗、強姦、掠奪、聞くに忍びざるものありたり』と記している。」そして、松井司令官は解任されたが、「日本に帰還した松井を…マスメディアは南京を陥落させた凱旋将軍として報道し、天皇も大軍功の殊勲者として勅語を与えた。陸軍中央は、松井石根の不作為による不法残虐事件の発生を知って、内部措置のかたちで解任しながらも、その責任は不問に付し、国民に対してその事実を隠蔽しつづけたのである。」

当時、報道管制下と言論統制下であったとは、いえ「日本の大新聞社があれほどの従軍記者団を送って報道合戦を繰りひろげ、しかも新聞記者の中には、虐殺現場を目撃したものがいたにもかかわらず、南京事件の事実を報道することはしなかった。」☆戦後すぐにでも、すればいいんです。世界に知れわたっていたんですから。アメリカは「…『非人道的野蛮行為』を平然とおこなう日本兵にたいする嫌悪・憎悪の感情を米国民の間に醸成させ、それが日米戦争時の『敵国日本』のイメージを形成した側面もあった」
「日本軍がひきおこした暴虐事件は、中国を屈伏させるどころか、逆に抗日勢力を強化・結束させる役割をはたしたのである。」

☆戦争そのものの本質に敵軍を殺す・虐殺をも正当化するものが含んでる。300人斬りした兵士は残虐きわまりないが、原爆落として、20万殺した人間が残虐でないとは言えないはず。自分の力で血を見て殺しいるので、ヒューマンだとさえ思うその殺人鬼は、処刑されるのはやむを得ないが、原爆落とした人間が罰せられないのは、腑に落ちない。負けたからしょうがない?
◎ 松井司令官は中国人にとって、日本で言う「市中引き回しの上、獄門さらし首」しなきゃ、気が済まない、のではないかと、私には思慮する。巣鴨で絞首刑です。
☆ マクロで見れば、他の国へ軍が侵入して、略奪すれば、どう見ても『侵略』でありまして、虐殺がないにしたも、正当化され得ない(安倍君分かるかい?)便衣兵を殺したのは、ゲリラ兵と同じだから虐殺と言えない。とか捕虜とは、宣戦布告してないので捕虜じゃないから、虐殺にあたらないとか、「虐殺否定派」は、戦争での人殺し全てを反対する私には理解不能である。  
☆ 参考ウィキペディアより 『虐殺』人数論争  虐殺とは大雑把に不法な殺害のこと。
・ 30万人以上説 中国論者のみで、日本側学者は支持せず。習金平・東京裁判は30万と言う。
・ 10万人以上説 過半以上の日本学者?著者の笠原十九司、吉田裕、等々 主流か
・ 4万上限説  発言力のある?秦郁彦が主の説、半藤一利 
・ 数千~2万説 あるには、あったと否定しきれない人たち。
・ 否定説  右翼学者等 投降兵・捕虜等殺害は戦闘行為中であり、合法で虐殺無しとする。この人たちにとり、300人斬り田中軍吉は、英雄でしょう。皇軍に間違いはないと信じている?
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プロフィール

高田 学

Author:高田 学
少年時代は海と戯れ鎌倉育ち、故郷を離れ北海道で学業。その後東京にて工務店経営。
環境(省エネ)には特に詳しい。廃業後自由人。

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