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『敗北を抱きしめて』ジョン・ダワー著 岩波書店  読書ノート 

 
戦後占領史の決定版 「日本人はなぜ戦争を放棄したのか?」
・序文より――「今日のイラクの状況は、戦後の日本を理解するうえで新しい光を投げかけてもいる。
イラク占領は、日本占領と根本的に違っている。・・あれだけの悲惨と混乱の最中にありながら、なぜ、日本は無秩序と無縁であったのか?あれだけの激しい戦闘のあとに、なぜ、占領者に対する暴力がまったく発生しなかったのか?どのような事情によって、日本はあの苦難を乗り越え、多様な創造性を発揮して「やり直す」ことができたのか?・・・・あれほど多くの日本人が、社会のあらゆるレベルで粘り強さと明るさを発揮したことだった。
たんに以前よりも自由な社会を作ろうとしただけではなく、日本人は暴力の愚かさをよく理解し、軍事に頼らない平和という理想を大切に胸に抱いたのであった。これらすべてが、もはや過ぎ去った歴史なのであろうか?

「・・南京大虐殺から、太平洋戦争末期のマニラでの蛮行にいたるまで、皇軍兵士たちは表現しがたいほどの残酷と略奪の跡を残した。・・日本兵は絶望的な自殺的突撃をおこなって戦死し、戦場で餓死し、傷ついた自軍の兵が敵の手におちるよりもむしろ殺害するほうを選び、サイパンや沖縄のような場所では、非戦闘員の同国人を殺した。
日本人は、自分の町が焼夷弾で破壊されるのを、なすすべもなく見守った。その間、指導者たちは「一億玉砕」がいかに必要かについて、あれこれ説きつづけた。
大東亜共栄圏のもっとも明確な遺産は、死と破壊であった。
中国だけで、おそらく1500万人が死んだ。約300万人の日本人と、大日本帝国のすべてが失われた。」 「・こうして結局、戦後日本には保守的な政府が出現したが、にもかかわらず、平和と民主主義という理想は、日本に根を下ろした。」

――「外国人が『従順な家畜』の心理とあざ笑った大勢順応主義は、日本人の間ではもっともあたりさわりのない言葉で表現されるのが常だった。・・農村では・大勢に従うことは『醇風美俗』と言われていた。・・」 「・・降伏後、知識人や政治家、そして多くの公人たちが、突如として民主主義や非軍事化の勝利をたたえて出現したことは、『醇風美俗』を大切にする多くの庶民の目には偽善的で日和見的なふるまいと映った。・・多くの知識人が実践した進歩的で急進的な政治への関わり方は、後に丸山真男が『悔恨共同体』の形成として特徴づけた、当時の時代状況を映し出したものだったのである。・・彼らは戦後の新しい出発を誓い合い占領期の『配給された自由』の下で日本の非軍事化と民主化を自発的に抱き取ってゆこうと決心したのである。・・・・多くは、公式的なマルクス主義を乗り越えて、あらゆる真の民主主義革命の基礎を成すと信じられていた『近代的自己』や『近代的自我』、あるいは『近代人の確立』をめぐる根本的な問題を提起した。 
 「教条主義的左翼は、民主主義革命を実現するためには、日本国民全体が優れた人々によって導かれなければならないという心理を広める役割をはたした。左翼あるいは共産主義者が考える前衛という発想自体が、まさに、大衆は後ろ向きで、上からの指導が必要であるという前提に立っていた。
この点において、左翼のエリート意識は、天皇の庇護と威光の下で権力を維持しょうとした保守主義者や占領軍と大きな違いはなかったのである。・・・ともに天皇制民主主義の実践者であった。」すごい皮肉を言われてますね。(筆者記)  「のちに明らかになるように、裕仁はしたたかで適応力のある人物であり、天の助け――もっと具体的にいえばマッカーサーの助けによって生き残り、満ち足りた人生を送った。
他方、裕仁をとりまいた忠良なる臣下たちは、みな責任を問われ、公職から追放され、戦争犯罪で訴追され、さらには処刑された者さえいた。天皇が日本の侵略においてどんな役割をはたしたかが、きちんと調査されたことは一度もなかった。
アメリカは、天皇の承認のもとに、天皇の名において行われた抑圧と暴力に対して、道義的責任すら認めないよう、天皇を説得した。側近たちが天皇退位の可能性をもちだすと、最高司令官は断固これに反対した。
こうして占領軍当局は天皇の名において戦われた聖なる戦争そのものと天皇個人を切り離したが、そればかりでなく、占領軍がかかわってつくりあげた新生民主主義国家の中心に、天皇を再び据えつけたのであった。天皇のこの魔法のような変身は、政治的にも思想的にも広く深い影響をあたえた。
なにが正義かは権力によって恣意的に決められるものとなり、戦争責任の本格的な追及は矛先をそらされてしまった。国家の最高位にある政治的・精神的指導者がつい最近の事態になんの責任も負わないのなら、どうして普通の臣民たちが我が身を省みることを期待できるだろう?戦後の政治意識は混濁してしまった。・・・これが憲法のいう『主権の存する国民』の地位を大きく傷つけた。『象徴』君主はあらためて世襲の特権を認められた。象徴天皇制とは、天皇の地位があいかわらず日本国における家父長的権威の最高の紋章であり続けることを意味した。・・新しい象徴天皇は、19世紀から20世紀はじめての発明品である『大和民族』なる自己意識をひきつづき象徴するものとなった。・・公式には宗教と政治が分離されたにもかかわらず、依然として天皇は日本特有の宗教たる神道の大祭主であり、宮中では神道の密儀をおこない、皇室の先祖神をまつる伊勢神宮に参拝しつづけた。」  「天皇の敗戦の放送は、事実上、宮廷と政府がはでに振り付けした『国体護持』戦略の始動を告げる合図であった。・・敗戦直後、鈴木貫太郎につづいて首相になった東久邇稔彦親王が8月28日の記者会見で、『一億の国民が総懺悔する』ことが国家再建のための不可欠の第一歩だと述べたことは、そうした(天皇を除く)集団的責任論を完璧に表現したものであった。・・「マッカーサーの幕僚たちも、平和主義者な統治者としての天皇のイメージに磨きをかけよと、天皇の側近たちを積極的に激励したのであった。・・くさびを打ち込め、軍部を悪役にしろ、天皇を平和主義者にして、天皇制民主主義を建設せよというキャンペーンは公然と大々的に行われた。日本側もアメリカ側も、究極的には同じ目的を実現するために報道機関を利用した。  「・・検察当局は、マッカーサー司令部の全面的な支持を得て、事実上、天皇を訴追から守るチームとして機能したのだった。」・・
・新たなタブーを取り締まるー検閲民主主義 「・まもなく日本人は、なにが新たなタブーに触れるかをすばやく察知して、適切な自己規制することを学んだ。究極の権力に挑んで勝とうなどとは考えなかった。」「検閲は1945年9月から1949年9月まではGHQ内の精巧な装置によって、その後は多少かたちを変えて、日本が主権を回復するまで継続的に実施された。「・・禁止事項のなかに、検閲が行われていることをけっして公式にみとめてはならない、という項目があった・・」 「この検閲民主主義は、イデオロギーを超越した根深いところに遺産を残した。表向き『表現の自由』を謳うなかで実施された秘密検閲システムと思想統制が、戦後の政治意識になんの害ももたらさなかったと、本当に信じる人などいるだろうか?屋根のてっぺんで『表現の自由』の旗を振りたてながら、その一方で、マッカーサー元帥の批判も、SCAPの批判も、巨大な占領軍全体の、占領政策全般のアメリカをはじめとする戦勝連合国の、戦犯裁判における判決はもとより検察側の弁論の、勝った側が実利的な理由から『ない』と決めた天皇の戦争責任の、ありとあらゆることの、批判を徹底的に抑えこんでおきながら?・・この観点からみると、この『上からの革命』のひとつの遺産は、権力を受容するという社会的態度を生き延びさせたことだったと言えるだろう。すなわち、政治的・社会的権力に対する集団的諦念の強化、ふつうの人にはことの成り行きを左右することなどできないのだという意識の強化である。征服者は、民主主義について立派な建前をならべながら、そのかげで合意形成を躍起になって工作した。そして、きわめて重要なたくさんの問題について、沈黙と大勢順応こそが望ましい政治的知恵だとはっきり示した。それがあまりにうまくいったために、アメリカ人が去り、時が過ぎてから、そのアメリカ人をふくむ多くの外国人が、これをきわめて日本的な態度とみなすようになったのである。」
・勝者の裁き、敗者の裁き  「国家の犯した途方もない愚考について指導者個人の責任をとうことこそ、『法の発展にとって画期的な事件』であって、核時代において決定的に重要なものだと考えた人たちは、レーリンク(オランダ判事)をはじめ無数にいた。・・・、こうした希望や理想も、裁く立場のダブル・スタンダードによって必然的に汚されていった。日本について言えば、司法の理想主義と、あからさまな勝者の裁きとの矛盾が、戦後の新しいナショナリズム台頭の温床となった。」。 「1947年6月の時点では50名が拘禁されていたが、東京裁判が終わったときにはそれが19名になっていた。そのなかには、絶大な影響力を誇った右翼の大立者、児玉誉士夫と笹川良一のふたりのほかに、のちに首相になった岸信介もいた。岸は明敏かつ悪辣な官僚で、傀儡国家満州国で経済界の帝王として君臨し、何千、何万、という中国人を強制労働させ、奴隷のようにこき使ったことなど、多くの行為の責任を問われていた。7名の被告が巣鴨で絞首刑に処せられた翌日の1948年12月24日、獄に残っていた19名の容疑者全員が、証拠不十分という理由で釈放された。・・ふつうの人間には、どこまでが司法で、どこからが政治的気まぐれなのか、理解できないのもむりからぬところではある。」「・・よしんばこれが『代表的』指導者に戦争責任について説明責任を問うための発見学習的あるいはショーケース的裁判であると了解したとしても、ある種の集団、ある種の犯罪がそこから見逃されていることはいかにも顕著である。人々に恐れられた憲兵隊の隊長は誰も起訴されなかった。超国家主義秘密結社の指導者も、侵略によって私服を肥やし、『戦争への道』を拓くことに親しく関与してきた実業家も、起訴されていなかった。日本が植民地統治していた朝鮮人と台湾人を強制動員したことは、『人道に対する罪』として追及されなかったし、何万人もの外国人の若い女性たちを狩あつめて帝国軍人に性的サービスを提供する『慰安婦』として働かせたことも訴追されなかった。また、検察団を支配していたアメリカ自身が、残虐非道さにおいて疑問の余地のない罪を犯した特定の日本人集団を、秘密裏に、そっくり免責していた。満州の七三一部隊で、何千人という捕虜を実験台につかって生物兵器を開発していた将校や科学者たちである(研究成果をアメリカに教えることを交換条件に訴追を免れた)。中国における化学兵器使用の証拠についても、検察は真剣に追及しなかった。」 「占領軍の検閲政策全体-それにともなうあらゆる不条理ともども-の司法版でもあった。」 降伏後、『騙された』という受動態の動詞がいたるところに見られたからである。・・このぬめぬめした言葉を自分たちの個人的責任を洗い流す洗剤として使った。」 「・この数年後、政治学者の丸山真男が、政府の『総懺悔』キャンペーンを、緊急場面に遭遇したイカが危険から逃れようと噴きだす墨の煙幕に喩えた。」  「どの文化においても、どの時代でも、人々は自分たちの戦死者を神格化してきた。その一方で、自分たちが踏みにじった相手については-多少なりとも思いを致すことがあったとしても-すぐに忘れてきた。・・・最終的には、平和意識をより普遍的に構築するためには、その基礎として犠牲者意識を強調するしかない、という結論になった。反軍国主義の感情を動員するには、身近な喪失や苦難の記憶を生かし続ける方法が、心理的にも、イデオロギー的にも、もっとも確実だという主張が通ったのである。」「左翼は、『国民=民衆』の責任問題をだいたいにおいて回避した。とくに教条主義的な者はみんしゅうを国家とその抑圧的エリート支配者たちによる搾取の犠牲者として熱心に描き出そうとした。」 「1951年4月11日マッカーサー解任・・・NHKは、マッカーサーの離日を生中継で放送した。蛍の光のメロディがながれる中、アナウサーは悲痛な声で『さようなら、マッカーサー元帥』と繰り返した。学校は休みになり、・・「・・マッカーサーはこう答えた『・・近代文明の尺度で測れば、われわれが45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年(日本のこと)といったところでしょう。』マッカーサーが日本の発達の後進性について語った・・」「1952年4月28日(日本の)主権は回復された。」同5月1日 血のメーデー「デモ参加者2名が死亡、警官をふくむ数百名がけがをした。敗戦から6年半、世界平和や新日本建設といった夢は破れていった。」「・・経営や産業に対する『行政指導』のように政府が積極的に役割を果たすやり方も、戦争に起源がある。・・」「日米合作の官僚主義崇拝、戦争から平和への移行期を生き延びた大政翼賛会的な古い体質、天皇が象徴する、神秘性を覆いにした説明責任の回避、新たに導入れた天皇制民主主義のうちの成長不全が残存することになった。」
「・・憲法九条は絶え間ない攻撃にさらされ、『自衛』力を維持するという名目の下で次々と拡大解釈が重ねられてきた。にもかかわらず、前文の力強い戦争反対の言葉とともに、依然として九条は不戦の理想を魅力的に表現したものとして今日まで生き延びてきた。その『戦争廃棄』という理想は、第二次世界大戦を経験した世界の多くの人々の心の琴線に触れた。」・・・・・


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【山好き、旅好きの団塊世代日記】 当ブログは2007/1/29に運営開始いたしました!





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プロフィール

高田 学

Author:高田 学
少年時代は海と戯れ鎌倉育ち、故郷を離れ北海道で学業。その後東京にて工務店経営。
環境(省エネ)には特に詳しい。廃業後自由人。

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