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「斗満の河」乾 浩 著  読書ノート

◎表紙帯より「北の大地に挑んだ男の軌跡! 明治35年、73歳で北海道開拓を志した関寛斎。30数年におよぶ医師としての地位・名誉を投げ捨て、北辺の地・斗満の開拓に命を懸けたその苛烈な生き様を描く書下ろし歴史長編」
・巻頭言《人並みの/道は通らぬ/梅見かな》 関 寛斎
・養父、関俊輔の孤高・清貧の姿勢(貧しくとも志を高く持てば、心豊かなり。まごころを持って人に接すれば、人は応えるものなり。人と人とのつながりは、算術の様に数では割りきれぬ故、互いに信じ仁愛を尽くせば、自他ともに大きな力を生むなり)☆寛斎はこの考えを身に付けた。
・「自分が医者の身分を捨てて、残りの人生を北の大地開拓に懸けようとする意味は何か。…貧しい人たちに十分な食を供給する。江戸時代から続いてきた地主と小作の関係を断ち切り、小作農の独立独歩を実現する。それができるのが、悪しき因習と地縁のない未開地の北海道ではないのか。」☆四男・息子の又一は西洋式の大規模農場を北の大地に実現すること

・11代将軍徳川家斉の実子・徳島藩主蜂須賀斉裕に要請され、国詰侍医を要請され、労咳(結核)を患っている15歳の姫・賀代姫の担当医になる。「…労咳を撲滅することも医者に課せられた仕事なのだ―寛斎は自分に言い聞かせ、このような不条理に対して科学がどこまで挑戦できるかを自分で試そうと決意した。」「…『医は仁術なり』という言葉の重さを改めて知った」
・奥州・野戦病院・新政府軍医として…「決着は、上野の森でついていたはずなのに、なぜ、ここまできて殺し合いをしなければならないのだ…寛斎には愚挙しか映らなかったこの戦も会津藩の降伏で決着がついた」…新政府からの「褒美の100両は、皆で分け合うのが筋だ」☆皆に分ける
・「また、大学東校(現東大医学部)からの任用要請、・海軍病院からも再三の任用要請があったが、すべて断った。(ついこの前まで、『薩長の不逞の輩が』と叫んでいた連中が、口元の乾かぬうちに薩長に取り入り、新政府の地方官として権力風を吹かす。そんな節操のない輩の辞令など受けられるものか) 寛斎は悲しかった。目ざとく時代の波に乗り、藩閥を足がかりに出世しようとする信念のない人間が、新政府の地方官としてのさばり始めたことに耐えられなかった。」

・「…一旦、病に罹り職を失うと、人間の生命を支える食料も得られなくなってしまう。…農業の生産力の向上…品種の改良…もう一つの未開の地を開拓することは無理なことではなく、いますぐにだってできることだ…医食同源を信奉する寛斎は、人間の健康維持には食べ物が欠かせないもので、その食べ物を生産する農業こそ、医の根元だと考えた。…酷寒の地なので、伐り開いていくことはかなりの困難が予想されるが、北海道を開拓すれば何十万、何百万の貧者を救えるかも知れない。また内地の手狭な農地にしがみついている居候の次男、三男たち、さらに、小作たちが彼の地へ行けば、広大な農地が伐り開いただけ自分のものになる…寛斎の脳裏にそのような考えが芽生え…」「儂(ワシ)は、医を天職だと思っていたのだが、今日食う米さえ手に入れられない患者に向かって、滋養のあるものを食べれば治ると言う医者としての自分が情けなくなった。」
・(北海道開拓は)晩成社と赤心社、その後遅れて二宮尊親の報徳社と続き、これらの民間結社による北海道開拓移住の知らせが、寛斎の心を北海道に向かわせるきっかけとなっているのである。」
・「寛斎は熊野街道中辺路を歩き…大辺路・熊野巡礼の道を歩いたことは、40数年間続けた医業を捨てて、北海道開拓に向かう心の整理… 『儂は、まだまだやらねばならぬことがたくさんある。世間でいう楽隠居などとんでもないことだ。死の直前まで、夢に向かって生命を燃やし続けるのだ。老人という事で世間の隅に追いやっているその考え方自体に挑戦するのだ。そのためにも、身体は鍛えなければならぬ。』寛斎は歩きながら、自分に言い聞かせた。」
・「それならば、儂の残りの半生は、世俗の営みや毀誉褒貶(キヨホウヘン)に煩わされず、大自然と挌闘して生きてやる。せっかく、この世に生を受けたのだ。この生命を自分の夢のために燃やすのだ。」

・「(池田)農場主の高島嘉右衛門は横浜の立派な邸宅に住み…地主と小作人の関係…畑を伐り開き作物を作っている人間(小作人)が食に困り、借金で動きがとれなくなっていることに憤りを感じた。」
・「朝日の照らしだされた斗満の大地を見た寛斎は、その広大な自然の美しさにみとれてしまい、思わず柏手を打った。…柏手をうたなくてはならないような自然の荘厳さだ。アイヌは山川草木すへてに神が宿ると考えているが、まさに神が宿っているような気持にさせる。」
・「斗満川の畔にある斗満駅逓診療所に住んでいて、・寛斎は朝起きると、戸口で深呼吸を3.4度繰り返し、軽く体操をして、その後・川の畔で褌ひとつになって水浴するのを一日の日課の始めとした。」
・「北海道の道路や鉄道を敷設するためにどれほど多くの囚人たちが犠牲になったか―それでも足りずに、アイヌたちを騙して働かせる―手配師と結託した看守たちは、あのようなこと(鞭で働かせる)を、あちこちで頻繁にやっている…寛斎は激しい憤りがこみ上げて来た。…」
・「…開墾とは、人間のエゴイズムのために木々の命を奪い取っているのだという意識が、いつも寛斎につきまとった…木の悲鳴が聞こえてきても、それらの人々(貧しい患者)のために木を切り倒し、…」

・「妻アイの死は、寛斎をうちのめした。…アイと約束した斗満開拓、を果たさずに途中で投げ出して、アイの後を追うわけにはいかなかった。また濱口悟陵の遺訓でもあった『人たるもの、その理想のために尽くして死に至るべし』…『人たるの本分は眼前にあらずして永遠にあり』
・二宮尊親「元来報徳の道とは、精神と物質、道徳と経済の一体化であり、徳をもって徳に報いる精神が基となるものです。ですから、精神を経済的に具体化するところに本来の使命があるのであって、単なる食糧問題の解決、暮らしを良くするといった捌け口のために、北海道移住事業を志した他の団体とは根本的に趣を異にしているのです。だから、興復社は諸種の経済活動を行うと同時に、不動の心構えをもって移住の教育を行ったのです。」
・「疫病によって56頭の馬が死んだ…従業員の動揺…寛斎は・叫んだ『ここを懼(オソ)れる者は去るがよい。儂は一人になっても、ここに踏みとどまる。みろ、種馬は無事だ、・この老体を叱咤してでも儂は初志を貫く!この斗満に骨を埋める。そして、牛馬を育てる草の肥やしになるのだ。儂は裸になってもこの農場を守る!』
・「明けて明治38年正月元旦、斗満で迎える3度目の正月の朝である。氷点下20数度の中、結氷した斗満の河に赴き、氷を割って身を沈めた。躯が凍結するかと思われる氷水で身を浄め、斗満駅逓所に帰って御神酒をいただくと、『積善社趣旨書』の下書きにとりかかった。」☆この『書』下書きに終わる。
・徳富蘆花「『アンナカレーニナ』の冒頭に『復讐は我にあり、我これに酬いん』という聖書の言葉…人間の持つエゴイズムなるもんを真面目に追求していくと、人間が生きているとはどういうことか、また、死とは何かに行き着くとです。トルストイはこげん作品でそれを追求したかったのではなかか。…」「また、アンナが愛人ウロンスキーを純粋に愛そうとすればするほど、その愛は社会の歪みを映して歪んだものになってくるとです。」「トルストイの一貫した命題は・・個々の人間が心のなかに抱いている真、善、美という神を追求していくことではなかったかと蘆花は結論づけ、寛斎に伝えた」
・「『…儂は、やりたいことがたくさんあるのに、百まで生きたとしても時間が足りなくてのぅ…』
・「『大自然から受ける人間の敬虔な心、それが神だと思うているから、神は常にそれぞれの人間の心の中に宿り、各人の心の中で育まれていくものだと思うている…人間は悩み彷徨い、それから逃れるために、死ぬるまで神を求めて精進するのだ。そして、死と同時に滅んでいくのだ。滅べば、植物や動物と同じように土に帰り、次の生き物を生かすための肥やしとなるのだ・・』」

・「二宮尊徳の『勤、倹、譲』の思想に傾倒し、それを斗満の地でも実現しようとした。特に、寛斎が感銘を受けたのは、自作農から転落しないために、互いに助け合っていく組織を作ることと、その背景にある『譲』の考え方をもとにした、広く社会に譲って行こうとする報徳精神による理想的農村像の建設であった。そして、トルストイの唱える『己の額に汗して土を耕し、人の助けをかりずして食う』また『平等均一は深奥なる天の恵賜』であることの考えに基づく、小作制度の解体と共同体による農業の活性化であった。」――農場解放と親子(又一四男)の確執――
・「餘作(三男)…父親は常人ではなく天災に近い狂人で、自分はただの凡人だと思うようになった…」
・蘆花の斗満来訪に塩田青年が薩摩琵琶を弾く、塩田君「南洲どんと戦死した叔父上の霊がおいどんに乗り移ったからでごわそう」
・管理人片山八重蔵夫婦の隣地への引っ越し…「寛斎が苦労して又一を説得して、やっと引き出した独立自営の先駆にもなる引越しなのだ」…☆この片山さんらで斗満の開拓は進められたと言う。又一は?
・「寛斎は、医学の信条と健康法をしたためたこの『命の洗濯』を、生きてきた証としてまとめ、出版と同時に、知人、友人など300人近い人たちに贈呈したのである」
・「濱口梧陵翁がいつも寛斎に示していた言葉が浮かんできた。《いわんや祖先及び父母の倹約労苦より成るところの家庭においては、これを私有すれば偸安怠惰に陥るものなれば、子孫の為には家産を遺す如きをば為すべからず―この心が、息子たちにはわからぬかのぅ》
・「10月13日、実母の忌日にて殊に偲ぶばるる 又一と話し、更に決するところあり その日記は、10月13日、その日を最後にとぎれてしまった。」
・「アイを、この斗満の地に連れてこれなかったことが、寛斎のただ一つの心残りであった。『アイの遺言のように、儂もこの地の肥やしになろう。それが又一のためにもなるであろう……』《これが最後だ、もう言わない。だから儂の願いに耳を傾けてくれと頭を下げたのだが、又一は聞く耳を持たなかった。また、孫の大二からも財産分与の訴えを起こされてしまった。和を尊ぶ儂の願いは、息子や孫によって粉々に壊されてしまった・儂の心がなぜわからぬのかのぅ…血を分けた子供や孫にも分かって貰えないのは淋しいのぅ。ただ一人、わかってくれたのがアイだった》寛斎は満天の星を仰いでつぶやいた。
・《其の所を失わざるは久し、死して亡びざるものは命ながしと言うが如く、儂は、死して亡びざるために死を選んだのだ》☆わからん、言い訳なの? 余熱が燃え尽きた?城山三郎曰く。
・「…寛斎の御霊が天に昇って行くようであった。明けやらぬ大正元年10月15日の深夜であった。」
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こんにちは!

【山好き、旅好きの団塊世代日記】 当ブログは2007/1/29に運営開始いたしました!





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プロフィール

高田 学

Author:高田 学
少年時代は海と戯れ鎌倉育ち、故郷を離れ北海道で学業。その後東京にて工務店経営。
環境(省エネ)には特に詳しい。廃業後自由人。

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等で 皆様の役にたてたら良いなと思うブログを書いてまいります。

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