☆「刑法」より「世間」が勝つような事態がでてきたことに、危機感を持った刑法学者の「世間」解剖学
はじめに、より「歴史学者阿部謹也は言う、『世間』に生きているにもかかわらず、あたかも社会に生きているように錯覚してモノゴトを考えてきた。この問題提起はわが国の学者の生活と思想(現実と理念)の乖離を批判しただけでなく、・日本のアカデミズム全体の存在基盤を危うくしてしまうほど、きわめてラディカルなものである。考えてもみれば、日本の明治以来の『近代化』もまた、この種の錯覚におおわれていて、私たちは『世間』をみないようにして、社会という空中楼閣のようなところに哲学や思想をつくりあげてきたといえるかもしれない。」
・「『世間』は、共同幻想という人々の共同観念そのものであるためにとらえどころがない。…共同幻想としての『世間』がいったいどこにあるのかと考えれば、それはそうした観念を生みだしている『自分』の側にあるともいえるし、…『世間』を問うことの困難さとは、『自分』を問う事の困難さなのである。」
・「『世間体が悪い』という場合、『世間体』は自分の外側にあるものとの関係でもあるが、『自分』の内側の問題でもある。
・わが国の学者たち・ある人は『世間』を大塚史学(大塚久雄・経済史家)で問題になった封建遺制とみなし、それらの遺制については、すでに十分論じられてきたという立場をとる。しかし『世間』が単なる封建遺制ではなく、現実の権力となり得るということに気が付いていない…」
・「〈生活世界〉の思想化、生活=思想、・『世間』を思想や理念の問題としてとらえるこうした立場は、わが国では阿部謹也が西洋中世史に徹底的に沈潜することで、はじめて生み出されたものである。」
・『世間』を構成する原理の一つ、贈与・互酬の関係…阿部述べる「日本の強盗は殺人の特徴は、借金を返すための強盗が一番多い…贈与・互酬関係がこれほど貫徹している国は近代国家ではまれ…」、日本にとって「契約は人格にとって部分的なものだが、贈与・互酬の関係は人格にとって全面的なものである。」
・「私たちは『世間』という共同体のウチ側では臓器提供などおこなう『相互補助共生感情』をもちうるのだが、それが『世間』のソトの話になるとまた別になる…わが国では公共性という考えがなかなか定着しにくい…
・身分の重要性…「『身分』というのは、じつは『世間』のなかで自分がどういう位置を占めるかという意味。
…阿部は『世間』の構成原理の二つ目『長幼の序』をあげる。長男次男、卒業年次、入社年次、等
・個人は存在しない…阿部は構成原理の三つめ、『共通の時間意識』をあげる。今後共よろしく…とか
「西欧の個人はおのおのの別の時間を生きているという共通了解がある。わが国の『世間』では『共通の
時間意識』の了解があるから、別々の時間を生きる個人は存在するのがむずかしい。」
・「西欧で母子心中が重く処罰されるのは、子供が個人や人格とみなされるからであり、共通の時間意識があるとは考えられないからである。わが国の裁判所が刑を軽く認定するということ自体、裁判官もまた『世間』に生きていて、このような共通の時間意識を持ち、母親の心情を了解していることを意味する。・被告である母親と裁判官との間で『相互扶助共生感情』が働いている…」☆いや、前例にならうでないの?
・「古くから『世間』のなかで人は『ほかの人間たちに基準を求め』てきたのであり、また『他者との絆を顕示することで』、つまり自分がどういう『世間』に属しているのかを強調することで自分を表現してきた。…ここには、キリスト教の告解を通して生まれたヨーロッパ流の個人は存在しない。」
・自己決定の不在…「私たちはまず隣をみてから自分がどうすべきか決める。」
・…『いつのまにかこうなってしまった』という意思決定はすくなくとも法律上ありえないものなのだ。わが国の場合には、この点がはっきりとせず、ドイツ刑法流の犯罪の認定をおこなえばみんな無罪になるため、共同正犯の概念を拡大し、犯罪にかかわった人間にすべて法律の編みをかぷせ、実行行為以外も処罰できるようにしたのである。
・「…意志とは最終的にはあくまでも個人が孤独に決定するものである。」
・「わが国では、『意思』は相互に依存している関係のうちからしか、形成されないので、自己決定は『自己』がする決定になっていないのだ。この問題の根底にあるのは、じつは相当に深刻な事態なのではないか…」
・『世間』のなかでは呪術性が貫かれる…「要するに『世間』には『迷信』や『俗信』や『しきたり』のたぐいがたくさんあり、それが私たちの〈生活世界〉を規定しているということだ。」吉日選び、三隣亡…
・「わが国では、呪術性の排除が行われなかったために聖と俗の分離が生じなかった。…『世間』においては、犯罪はいつも罪と同じいみである。…被疑者は由緒正しい犯罪者にされてしまう。つかまっただけで、新聞はでかでかと、被疑者の生い立ちから家族状況、友人にいたるまで暴き立てる。そういうことがゆるされるのは、『世間』では犯罪を犯すことは法律の違反行為をおこなったということだけでなく、道徳上・宗教上の罪を犯したことになるからである。つまり法律の判断よりも『世間』の判断のほうが優先される。」
・『一般に、日本人にとって道徳やモラルは普遍的なものではなく、『世間』の内部にしか通用しないような特殊なものである。これをはずれると…『旅の恥はかき捨て』…他者の存在を前提とした西欧の公共性という概念がまったく存在しない…『相互扶助共生感情』の意志は『世間』の外部の人間にまでは届きにくい。それは『世間』が山本七平のいう『差別の道徳』つまり差別の構造をもっているからである。』
・網の目としての権力…「『世間』の『空気』がいったん決まってしまうと、その決定に『世間』の人間はしたがうしかない。人々は『世間』からつまはじきにされ、『世間』を離れては生きていけないからだ。だから『世間』は一種の権力であるといっていい…」
・「辺見庸は、この『世間』という特殊なあり方を言う『…政党同士、官民、労使が鮮烈な闘争を避け、利害の境界を曖昧にし、ほどよい議論のうちにことを発酵させていく。いうなら、菌糸のような全体主義化か。こちらのほうが見かけはソフトであるものの、敵の所在のはっきりしている古典的ファシズムや全体主義に比べ、よほど手に負えないともいえる。範囲が無限定の土壌や空気ほど手ごわい相手はいない。この国では、土壌や空気が制度や理念を腐食し、骨抜きにすることがしばしばである。思想や理念を語ることを、誰あろう、空気が冷笑し、土壌があざ笑うのだ。憂鬱のもとも、不安の根源もここにある。』
・「たしかに社会の存在を前提にすれば、なぜ日本人がこれほど劣悪な状況に置かれているにもかかわらず、(暴動がおきなければおかしいほどに)怒りもせず従順でいれるのかさっぱり理解できないだろう。しかし私たちは社会と決定的にちがう『世間』に生きていて、徹頭徹尾『世間』に縛られている。この点をきちんと批判しない限り、ウォルフレン(人間を幸福にしない日本のシステムの著者)の議論は机上の空論である。…『世間』は『しかたがない』という諦念でおおわれている。」
・社会はわが国には存在しない…「『バブルの崩壊』1991年をきっかけとして現在に至るまで、むしろ『世間』は膨化し肥大化しつつあるように私には思える。」
・社会・契約関係⇒世間・贈与・互酬の関係、社会・個人の平等⇒世間・長幼の序、社会・個々人の時間意識を持つ⇒世間・共通の時間意識を持つ、社会・個人の集合体⇒世間・個人の不在、社会・変革が可能⇒世間・変革は不可能、社会・個人主義的⇒世間・集団主義的、社会・合理的な関係⇒世間・非合理的・呪術的な関係、社会・聖/俗の分離⇒世間・聖/俗の融合、社会・実質性の重視⇒世間・儀式性の重視、社会・平等性⇒世間・排他性(ウチ/ソトの区別)、社会・非権力性⇒世間・権力性
・「ジャーナリズムや学問の世界では、あたかも西欧流の社会が実在するかのように、社会という言葉があたりを席巻した。しかしそれは蜃気楼のようなものだった。」☆理屈(社会の理)はそうだけど、世間は認めないよ、とか…「明治以来のこの百年間に、社会という言葉がある程度浸透したとしても、深層の部分では『世間』が依然として息づいている。それは『近代化』のシステムとしての社会がただ頭の上にのっかっただけで、歴史的・伝統的システムとしての『世間』には手が加えられなかったからである。」
・「私たちにとっては『世間』が空気のようにあるのできがつかないが、つねに『配慮』を強いられる『世間』の不自由さは独特なものである。」
・「隣人訴訟…『世間』は排他的な構造をもつことを指摘した。ここにあらわれているのは、日本全体がひとつの大きな『世間』となり、その『生ける法』、すなわち『世間』の掟にしたがわないものは抹殺するという、一種の差別性である。この『世間』が法律上当然の『権利』をまったく無力なものにしている。…」
・「要するにわが国では、『理屈が通らない』のだ。…『世間』では『六法』は通用しない。・『世間』の原理とは理屈や理論や理性ではけっしてなく、呪術的・非合理的な贈与・互酬の関係であり、そこからくる義理・人情である。」
・わが国でプライバシー権の考え方が希薄なのは、『世間』のなかで個人が存在しないからだ。私たちは『世間』の中ではむしろ群れているほうを好む。」
・「『世間』のなかにある隣人同士…この贈与・互酬の関係を根底から破壊しようとしたからこそ、隣人訴訟の当事者に対して非難が集中したのだ。それはまた、わが国の『近代化』が、1980年代の高度資本主義=高度消費社会に入って後退し、それまでは解体し消滅するはずだった『世間』が前景に露出したことを象徴的に示すものであった。」
おわりに、より抜粋
・「つまり『世間』が解体して、私たちが『強い個人』になっていくのではなく、私たちは個人になれないままに、ますます『世間』だけが膨化・肥大化しつづけることになる。」
◎「だからいつも思うのは、日本は日本で西欧とは別の、独自の『自分』のことを考えなくてはならぬ。・『世間』の存在を前提とした別の、独自の『自分』になることではないか、と思うのだが」☆なんか、肩透かしで逃げたみたいのラストです。
スポンサーサイト
もしよろしければ応援宜しく御願いします。
↓これをポチっと御願いします。

にほんブログ村
コメントの投稿