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「赤い人」 吉村 昭 著 読書ノート

◎末尾の細谷正充の解説より-『記録文学』と言えるのか?・・・「広範な資料の収集と、粘り強い現地取材でで、歴史上の人物や事件を、とことん突き詰める。・・・よくぞここまで調べたという感嘆だ」 1977年発表作。「権力とは、ここまで非情になれるのか。作者の暴く重い事実に、感嘆せずにいられない。・・明治政府の政策により開拓の捨て駒にされた囚人たち・・・。感情についてもよけいなものを捨てている・・読者に強い印象を与える・・・」   

・明治14年4月、「東京集治監の柵門から朱色の衣服」赤い人の囚人40人・国事犯等終身懲役囚が、行先を告げられずに、船に乗せられ、小樽・石狩、川を遡り、丸木舟で2昼夜かかって須倍都太(樺戸)に着いた。
・「明治12年、内務卿伊藤博文は、北海道に集治監をもうけるべきであると・・・かれら(囚人)を開拓に使役できることは、政府にとって願ってもないことだ・・・、開拓使長官・黒田清隆が、候補地3か所、石狩の樺戸、羊蹄山麓、十勝川沿岸の調査すべきと回答、調査団長に月形潔を任命。月形は、佐賀の乱・江藤新平の裁判等に携わった、もと福岡藩士の出。道なき所を『藪こき』し、樺戸の沃土に開拓可とし、選ぶ。
・「内務省では、月形の意見を参考に3千人の囚人を収容する・大集治監の建設計画をまとめ・・、集治監建設工事請負は、開拓使御用商人大倉喜八郎の大倉組(大成建設の前身)に決定した」

・「その意見(月形)は採用され、東京集治監に対し、・・悪環境の中での重労働に堪え得る身体強健な囚人を40名選抜するよう命じた」
・40人の囚人は、仮獄舎での生活。獄舎建設と開墾作業とに分けられ・・囚人たちの両足首と腰縄の間には鎖が渡され、しかも二人づつ鎖でむすばれた。2カ月後一人の囚人が病死、8/21一人脱走。道なき所をさまよい逃げ、結局近くで、捕縛された。
・明治14年9/3、樺戸集治監開設式。全国の重罪人を集中的に収容する場所と規定された。
・上司・内務省監獄局長大書記官・石井、曰く、囚人に「足袋の使用許可をもとめてきたのは、監獄の基本である懲戒主義に反する」
・9/24、さらに囚人200名近く、入所。国事犯の囚人、演説したり・・すると、独居房に移されて、黙る。早くも9/28二人脱走、抵抗したので看守に切り殺される。明治12年に梟首(さらし首)は廃止されているので、遺体に蓆(ムシロ)放置・・蠅に腐臭・・12日後に埋めた。

・11/6で開墾は中止、雪・、「月形は、囚人に綿入れの獄衣、股引きの購入を予定していたのだが、それを運び入れる道が閉ざされてしまった、食料も乏しく、石狩川の結氷で集治監が完全に孤立・・、「ほとんど全員がしもやけ・あかぎれにおかされ、皮膚が破れて血膿も流れ出ていた」
・明治14年末、囚人372名中、35名病死、2名脱走で斬殺。翌1月末より、伐採労役開始。積雪の中で足袋無し。が足湯は作った。
・明治15年4/26囚人、川に飛び込み脱走図るも、溺死。待望の食糧が、激流を丸木舟でさかのぼり、到着。
・4/30~5/2、347名の囚人と看守の増員が到着。元新選組の長倉新八も赴任。計囚人630名、看守120名
 月形典獄に月形村一帯の警察権を、・・軽罪を犯した者の裁判権と警察権を掌握。
 この冬、90名以上の病死、厳寒と食糧不足を乗り切った。須倍都太農場と知来乙農場の開墾は、順調。
・5月下旬か、虻田郡へ500名、イナゴ退治に,難路を行かせる。病死16、病囚人約200、逃亡未遂5、名
・630-500=130名の囚人、当別村への道路開通工事へ。脱走2名、4名、2名、彼らは餓死3名、等
・明治15年7月、空知集治監開庁、典獄は渡辺惟精。
・明治15年末、在監者577名、逃亡囚34名、病死・斬殺108名
・月形村は、箱館と共に、一等郵便局。1月上旬に逓送脚夫、郵便物届く。逓送脚夫は若い健脚の者で、十分な防寒着を身に着け、野宿を重ね、犬を連れて行動する。「そのような氷雪の中を、600名の囚人が樺戸、空知集治監に、300名づつ2月に押送する・・、至難のこと・・」
・2月下旬、雪の中、囚人到着、・・「・味噌汁を口にした囚人の一人が『極楽』と、息をつくようにつぶやいた」
 「押走されてきた囚人の大半は重症の凍傷にかかっていて、・・壊死した個所から悪臭が放たれ・・獄医は手術をくり返し、足をつけ根から絶ち、軽症の者は指、耳を切り落とした。」
・「内地の集治監、監獄署に収容されている囚人の脱走原因は、主として北海道の樺戸、空知集治監に押送される恐怖によるものであった。」 

・6/25、脇田囚人ら7名の集団脱走事件、厚田村へ強盗、3人殺され、4人また獄へ。直後石狩川に蒸気船
・空知集治監、開墾させて、自給自足を図るとともに、採炭の労役。幌内炭山の労役へ、「幌内炭山は、経営を空知集治監に移し、明治16年7月から囚人を石炭採掘に従事させた。」
・幌内炭山、明治17年末、在監者数933名、作業中ガス爆発で157名囚人が重軽傷者、57名死亡、57名脱走者中6名斬殺。石炭採掘は政府の期待に沿うもの。
・樺戸集治監囚人には、五寸釘の寅吉こと、西川寅吉や、絵師の長庵がいた。
・明治18年、月形典獄は、「冬の寒気は、彼の呼吸器をおかし、」辞任6月に去る、安村治孝が赴任。
・「北海道開拓に内地の民間資本を導入すべきだという岩村通俊(道庁長官)の主張で・・・、釧路集治監が明治18年11/10に開設。設置の目的は、囚人を近くにある硫黄山での採掘に従事させることと、東部北海道の道路開墾を担当させることであった。」やがて、安田善次郎に譲渡・・

・明治19年3月、長官岩村通俊は、道庁の開庁式をあげ、・・空知集治監の設定地と忠別太(旭川)までの道路開墾を、樺戸囚人の使役で、・樺戸集治監典獄安村治孝に命じた。
・伊藤博文の命をうけた、少壮官吏・金子堅太郎は、「囚人は『暴戻の悪徒』であり、『苦役に堪えず斃死する』ことは、人員の減少になり国の支出を抑えることにつながるとも言った。」
・旭川への道路開墾、・・27名が死亡、衰弱で。明治17年秩父事件、死刑以外の者、加波山事件、等樺戸へ
・明治20年、樺戸、空知、釧路の三集治監がそれぞれ、監獄署と改称。行政改革、民間資本への払い下げ
 が、明治22/7月、永山長官は、集治監の名称に戻す。
・釧路監獄署・硫黄山採掘、「20/6月に入った頃、囚人たちの肉体は限度を超えていた。かれらの体は黄色く変色し、骨がすっかり浮き出ていて腹部が異様にふくれていた。・・典型的な栄養失調性で、その年の6カ月間に300余名の外役囚のうち145名が罹病し、42名が死亡した。かれらは朝になって冷たくなって・・」
・「落盤と小爆発は絶えず、囚人たちは生命の危険にさらされながらも課せられた炭量をこなすことによって加増される麦飯の魅力にひかれ、ほとんどやすむことなく働き続けていた。」

・前年と比べ、樺戸8名が39名に、空知も43名と急増の逃走。「その現象は、囚人たちが自分たちの過酷な労役によって北海道開拓政策が推進されることを意識し、それが確実に自分たちを死に追いやるものであることに気づいたからであった。」 3集治監あわせて約8千名に達し(明治23年か?) 道路開墾のため増
・明治24年、西川寅吉、7回目の脱獄。五寸釘の寅吉は、最後は模範囚となり、・・・
・幌内炭鉱、明治22年、新任北海道長官・永山武四郎は、「同じ薩摩藩出身の堀基に35万という破格の安い価格で、幌内炭山と幌内鉄道を払い下げた。☆いわゆる北炭の創業、・・高官と資本家の結びつきによって炭山の事業はその掌中におさめられ、空知集治監は、囚人を労役に差し出すだけになった。・・強制労働と安価な囚人の工賃の上に、堀は炭山を経営するようになった。この払い下げは明治24年帝国議会で田中正造が質問したが、議会の解散で、政府答弁は無し。
・「網走分監を新設した道庁の第一の目的は、大規模な道路計画を囚人の労力で成功させるためであった」
・網走・旭川間の開墾工事、囚人の犠牲は、病気にかかった囚人は延1916名、栄養失調症による死亡156名、消化器疾患による死者2名、逃走し、殺害された者3名、縊死1名、医薬品不足で未治療者133名

・樺戸本監、明治24年、新任典獄・大井上輝前(オオイノウエテルチカ)、キリスト教牧師・原胤昭(タネアキ)と親交、月形にキリスト教会を建て、囚人にとどまらず、村民への伝道も行わせた。また樺戸、雨竜、上川三郡の郡長、樺戸警察署長をそれぞれ兼任、キリスト教の普及の指示。仏教教誨師からキリスト教教誨師・原に代えた。
・大井上は、炭山への囚人の出役への廃止を訴えた。新聞紙上にも記事が掲載され、道庁は廃止を指示。
・「全国で北海道の集治監のみが、キリスト教教誨師で独占されていた」が、ご真影に礼拝、で不敬事件として問題化され、明治28年7月、石沢謹吾と交代。この年、釧路分監・帯広出張所が十勝分監に昇格し、1300名の囚人が収容。大津港から帯広までの道路を開通させ、狩勝峠への道路工事にも着手した。
・明治30/2月、英照皇太后陛下御崩御、特赦。道内、7千余名の在監者中、樺戸本監839名、空知分監752名、釧路分監180名、網走分監371名、十勝分監331名、計2473名の放免。
・「監獄制度の改良を熱心に押し進めていた司法大臣清浦圭吾の努力がみのって、新たな監獄則に」 
・「監獄則改正に伴い、空知、釧路両分監は廃止、樺戸監獄を署、十勝監獄署、網走監獄署として、それぞれ独立し、司法省の管轄下になる。明治36年 参考日露戦争へ

・「旧刑法(明治13年)では殺人犯でも無期刑が限度(☆例外はあった)とされていたが、それは囚人の労役を活用するための便法でもあった。つまり、かれらに課せられる過重な労役は、一種の『緩慢な死刑』でもあった。新刑法は、凶悪犯には死刑を科し、犯罪の刑量はとても重くなっていた。それは、囚人の労役をいたずらに囚人の懲戒と国家利益の貢献に利用しないという、近代刑法の精神にもとづいていた。」
・明治天皇の死による恩赦、樺戸監獄では300名放免、等。 全国各地に監獄が新設され、囚人を大量に北海道に送りこむ理由はなく、樺戸監獄の必要性は急速に失われて・・、大正8年、村民の廃監陳情もあり、1/20廃監公布。在監していた数十名の囚人は他の監獄に護送され・・・」

・五寸釘の寅吉は、最後は網走監獄署、別人のように温和な人物になり、・・読書を好み、・模範囚になり、仮釈放になり、72歳で出獄した。「五寸釘寅吉劇団」と称し、興行師に利用され・・、後、故郷に帰り、息子に引き取られ、昭和16年、87歳で没。 ☆小説『破獄』は、佐久間清太郎の脱獄の話。

☆圧倒的な、事実認識をさせられた。ここまで調べ上げて、書けるとは、すばらしい、うらやましい。
  でもこの事実を知ることのできる人は、少ないのです。
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【山好き、旅好きの団塊世代日記】 当ブログは2007/1/29に運営開始いたしました!





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プロフィール

高田 学

Author:高田 学
少年時代は海と戯れ鎌倉育ち、故郷を離れ北海道で学業。その後東京にて工務店経営。
環境(省エネ)には特に詳しい。廃業後自由人。

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