◎帯より「九度蝦夷地へ渡り、アイヌ文化を後世に伝えた最上徳内の半生を壮大なスケールで描く歴史長編
何度挫けようとも男は北の大地を目指した。」
・「…百姓に学問なぞ無用なものだ。と・・叱ったことは一度もない。おそらくは、父が世間の広さを知っていたからだ。・・息子の向学心に蓋をしようとはしなかった。…なけなしの金をはたいて息子に与えてくれたのだ。☆その本は塵劫記。 27歳の時、父の一周忌の後、神田の煙草屋、に奉公後、永井右仲を師匠にし、音羽塾の本田利明に弟子入り。
・老中筆頭、田沼意次の用人・土山の師・工藤、『赤蝦夷風説考』執筆中、云々で、本田利明と最上徳内とが、田沼意次の命で、50人の見分隊に加わることに。が師匠が怪我(芝居)で、徳内のみ同道。普請役・青島俊蔵。
・天明5年(1786)2月、田沼意次の肝煎り見分隊、江戸を発つ。地味
・松前に着く、「…松前藩に借りを作らぬためだ。過分な接待を受ければ、手を加えたくなるのが人情だ…」
・本田利明の言「アイヌの民は、ずっと昔から蝦夷地に住まっておる。何百年、いやことによると千年以上も前から在るのかもしれん。雪と氷に閉ざされたさいはての地で、それほどの長きにわたり、子孫をたやすことなく存してきたのだ。その知恵と工夫は計り知れず、北方を拓くには欠かせない。ぜひ助力を乞い、共に手を携えるべき相手だ。」
・4月29日、松前発つ、東組総勢20名、松前の侍・浅利もいる、偵察役。旅の途中で上司・青島よりアイヌ語を習得せよと。運上屋の仕組みは商人と松前藩にとっては大きな旨味があった。アッケシ会所は飛騨屋のもの。石狩やソウヤに十数カ所、キイタップ会所、クナシリ会所も任されている。
・アイヌの少年・フルゥの手引でコタンを訪ねる。そして通う・アイヌ語覚える。
・惣乙名・イコトイ 「眼光の鋭さは知性を、堂々とした佇まいは胆力を、そして落ち着き払った態度は威厳を表していた。」
・ソウヤ会所「会所の規模はアッケシと変わりない。額が大きいのは、カラフトが近いからだ。清国の絹織物や陶磁器は、アムール川流域の民である山丹人やカラフトアイヌを経て、蝦夷アイヌへともたらされたが、いまや交易品のすべては、松前藩と商人の手にわたる。」
・1/20真夜中、雪の中、アッケシへの一人旅、発つ。アイヌのコタン、コタンに頼りながら・・・。「行く先々で案内を務めてくれたアイヌのひとたちの存在は大きい。・・・測量の合間に、熱心に案内人と話をする。…新たな文化に触れるごとに胸が高揚した。ことにユーカラやウエベケレと言った文学には、心が揺さぶられた。」
・「何も出来ぬ非力を嘆いていたが、この圧倒的な大きさの前では(☆勇払原野を見て)、己が悩みなどあまりに小さい。吹き付ける風にとばされて、いじましい気持ちが剥がれてゆく。残ったものは、純粋な思いだった。ここに田畑を拓くには、土地の者たるアイヌの力が要る。アイヌもまたそれを望んでいると、イトコイは語った。ならばおれは、アイヌ人と和人とを結ぶために力を尽くそう!そのためにおれはここにいるのだ。」
・「日高山脈は、この旅最大の難所だ。…クマに対しては驚かさないようにして立ち去るのが上策だと語る・・」
・「トカチという港に至ると…シラヌカという土地に至って一軒の運上小屋、番人の男・和人、陸奥の南部・野辺地(アイヌ語)にいた男、二晩泊。・・・松前から50日の旅、アッケシ着。アイヌ少年・フルゥに再会。徳内、髭もそらずに、「イワン コタン カマ シキヒ スイエプ ヘマンタ ネ ヤー」「キケバセイナウ」「六つの村を越えて、髭をなびかせるものは何か?」「謎かけの答えは、髭のように見える神具、キケバセイナウ」
・「ラッコの猟場たるウルップ島を、ロシア人に襲われた翌年、クナシリやエトロフのアイヌたちは二百を越える数を集め…、、以来ウルップ島は赤人とアイヌ人、共有の猟場となったという。…ウルップから北の島々は赤人領となっており、しかもすこしづつ南下を試みております。」
・『未知の場所を、見たい知りたいと欲するのは、ごくあたりまえの願望だ。13歳(フルゥ)の男ならなおさら…、だがおそらく願いは叶わない。公文書のなかでは、アイヌ人は夷人と記される。つまりは蘭人や露人と同じ、異国の者として扱われるのだ。蘭人が長崎の出島に籠められているのと同様に、アイヌ人は蝦夷地に封じられている。・・・・もしもアイヌ人がアイヌらしく生きることを望むなら―蝦夷地がロシア領となる方が、望みはあるのではないか? 何故なら、ロシアはあまりに広大だからだ。・・・この荒地が田畑になれば、飢えた民草がどれほど救われるか?―だが描いた夢の絵に、フルゥが憧れる雄々しいアイヌの姿は存在するだろうか?…迷いが生じたら、フルゥを思い出せばいい、この少年の行く先が明るいものとなるよう、そのための道を選ぶのだ。』
・ツキノエと山口ニシパ(東組普請役・侍)気心知れた仲、・・「やがて山口とイトコイが率いる本隊がクナシリ到着、3月末・・」 「勘定奉行の松本伊豆の守は、すでに蝦夷開拓にとりかからんとしている。…その数なんと7万人だ。・・伊豆さまが話を持ち掛けておるのは、浅草弾左衛門(非人頭)だ。あの男の力は侮れない。・・」
・宗谷隊の病死・・、ロシア人二人との徳内との交流・ロシア語勉強。 隊はクナシリで試し交易の実をする。
・「エトロフ以西の千島が日本領、クリル諸島以東がロシア領、ウルップはいわば両国の緩衝地帯にあたる。山口と青島は、隊長の佐藤玄六郎にそのように報告すると徳内に伝えた。」
・1786年十代将軍家治死去、田沼意次失脚、「新取果敢な重商主義は、保守的な幕臣たちを逆撫でし、農民の反撥を買った。…いつの世も、時代を先取りするものは憎まれる。彼らの描く先々が、足許ばかりに目を落とす大衆には見通しようもないからだ。」 「田沼の失脚とともに、蝦夷地見分隊の意義も失われた。」
・「評定所にて、田沼主殿頭と松本伊豆守の裁きが決した…『蝦夷地に関わる件は、不埒の至りに尽きる』2年にわたる蝦夷地見分隊の、それが成果だった。」 徳内、音羽塾の門下生に戻り、悶々とした日々で・・・
・「江戸の奢侈は、諸国の貧で支えられている。・どうも何かがずれているように感じた。2年にわたる旅暮らしを経て、変わったのは徳内の方だった。松前城下こそきらびやかだったが、一歩でれば茫漠たる原野が広がる。アイヌの自然に根差した営みは、江戸の奢とは対極にある…」 『私は今一度、蝦夷の地を踏みたい』
・松前家の菩提寺・法幢寺の秀山和尚を頼って松前に行くが、追い払われた。
・野辺地の嶋屋の主人・嶋屋清吉の世話で、子ども塾を開く。
・清吉の書物好きの妹・おふで(こぶ付き)と祝言を挙げる。 政権の中心は松平定信、潔癖すぎ。
・「東蝦夷の報がどこよりも早く届いたのは、おそらく野辺地だった。☆クナシリ・メナシの乱」
・普請役だった青島再雇用され、乱の見分に使わされる。
・「松前の専横とアイヌの窮状を幕府に訴え、蝦夷地を実り多い土地にする。田畑を拓き和語を覚え、対等の取引をしたい。イコトイはそう望んでいた。」 「イコトイは乱に加担せず、鎮撫のため動いておると思われます。」 青島、徳内再度、蝦夷地へ。
・「…さまざまな人種や民族があるが、尊厳に対しての考えは不思議と一致する。誇りを踏みにじられることは、ひもじさ以上の怒りを喚起する。」 「東蝦夷のアイヌは、もとより鋼強だと怖れられていた。・・遠い山丹やロシアと交易してきた東方のアイヌにとって、松前藩や商人がおしつけてきたのは、交易でなく略奪だった。」 「謀反なぞではございません。・・松前や商人からのあまりの仕打ちに耐えかね起こした一揆です。」
・「この乱を収めたのは、ひとえにイコトイやツキノエら、アイヌの顔役たちの働きによるものです。それを吟味すら行わず、直ちに斬首とはあまりに・・・」 「松前に従ったアイヌ人は、43人。その身なりを飾り立てたのは松前だ。・・・後に『夷酋列像』・画家は蠣崎波響 ・同道していた、常磐屋=笠原五大夫、幕府の隠密
・何故か?「主従共々牢屋へ・・」 徳内のみ3か月余り後、牢より解放。師匠本田利明の奔走による。
・「田沼時代を払拭し、・・田沼時代の香りのする報告書なぞ、認めるわけにはいかなかった。」 定信の意向で青島は、刑に処せられ、病死。 が、徳内は公儀普請役下役にとり立てる、命が下りたが、頑迷に断るが・・
・「いわゆる学問とは違え智慧を、物腰から感じ、畏怖を越えて親しみがわいた。アイヌ文化は斬新で、極寒の地に生きる術を蓄えられていた。それからイコトイツキノエに会い、数多のアイヌ人の助けを得て、単独で東蝦夷まで(厳冬期)踏破もしたが、やはりフルゥの存在が大きい。・・文化はおしなべて暮らしに密接しており、少数が多数に吸収されるのは世の慣いだ。それでも民族の誇りだけは、失って欲しくない。フルゥにはそれがある。」
・野辺地より妻が赤子を背負いて、江戸にたどり着く。喜び合い、≪六つの村を越えて、髭をなびかせる者≫になると決めて、ハッピィエンド。
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