◎作家は、併合中であった朝鮮で生まれ、現地で中学まで行き、終戦後引き上げる。1975年45歳で没。
流行作家で、官能小説から多方面で活躍。この頃再評価され、反戦小説集「李朝残影」が文庫本として出版された。その中の一篇が「族譜」である。25歳の時の作品。こういう作品を書いていたとは驚きである。
・出だし、「―その頃、僕は、徴用のがれの卑怯な気持ちから、道庁(京畿道)の、ある職に就いていた。」
・「創氏改名というのは、・日本のとった植民地政策の一つで、朝鮮人や台湾人の姓名を、日本風に改めさせ、日本人になりきらせようという政策である。もちろん、内鮮一体の政策から派生的に生まれたものであった。しかも朝鮮総督府自慢の政策の一つだったのである。」
・「・・正直言うと、この政策は、従来、不当に差別待遇されてきた朝鮮人への、一種の恩典であるとすら考え、この仕事を与えられたときには、こいつは高射砲陣地をつくらされるより、やり甲斐がある、と感激した位だったのである。」
・「この朝鮮では、日本人は支配者であった。…漠然と、彼等が可哀想だと思うことはあったが、なぜ朝鮮人がそうなったかについて、考えたことはない。僕が、日本が朝鮮を侵略したときの、苛酷で卑劣な手段を知ったのは、美校に入ってからのことである。でもそれもすこぶる皮相的なものでしかなかった。・・日本人には、抜き難く鮮人に対する蔑視感が植え付けられている。それは子供たちが、鮮人に対して口をとがらせて叫ぶ『ヨボの癖に!』という何気ない言葉にも、はっきり示されていた。・<鮮人の癖に口答えするな>とか<生意気言うな>といった意味が込められている。・・この蔑視感は、この風土に30年にわたって培われてきた。植民地のこのような感情は、なかなか拭い切れるものではない。」
・「だが、創氏改名をしたら、日本人と同等に待遇しようと、表面では甘い餌を曝しながら、その実、当局が考えたいたのは、・・つまり徴兵であり、徴用だったのである。」
・「僕は、方法がどうもフェアではないと心に愧(は)じた。」
・「婚約者を奪われ、父を殺されたちょうせんの乙女の、激しい怒りがヒシヒシと僕の身にも伝わってきて、なんと返事してよいか判らないのである。・・・僕はうなだれ、『憎いでしょう。僕を恨んでください』と、憔悴した玉順の横顔に、洩らすよりなかった。―僕はそれから3か月ばかりして出征した。…義兄たちや絵の仲間に断って、ただ一人で、僕は列車に乗った。・・でも僕は一人ぼっちだった。≪これでいいのだ≫と思っていた。なにも悲しくはなかった。どこか贖罪に似た、寧ろ晴々とした気持ちすらあった。」ラストです。
☆朝鮮併合中の実際が認識できました。「李朝残影」等の他の中編に読み進むのは、気が重い・・・
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