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「民衆暴力」 ―一揆・暴動・虐殺の日本近代  藤野裕子 著 読書ノート

◎表紙帯より 『「新政府反対一揆」「秩父事件」「日比谷焼き討ち事件」「関東大震災時の朝鮮大虐殺」、何が人びとを駆り立てたのか』 
・はしがきより・・「近代国家は暴力の正当性を集中的に掌握し、それ以外の主体がふるった暴力を違法と見なす。それにもかかわらず、民衆が暴力をふるったとすれば、法や規範を突き抜けたことになる。・・本書は「民衆暴力」の時代的な変遷をたどっていきたい。」
・序章より… 「江戸時代の百姓一揆には一定の作法があり、・・なぜ百姓一揆では武器を持ち出さなかったのだろうか?・・幕府や藩も、一揆をいきなり弾圧することはなく、役人が訴状を受け取って、説諭し解散させるケースが多かった。…仁政イデオロギーは、仁君であることを名目に幕藩領主の支配を正当化(正統化)するイデオロギーであった。」 「商品経済の発達…仁政イデオロギー事態の機能不全に→一揆の作法の逸脱(武器携帯)→世直し一揆
 ≪通俗道徳と解放願望≫―商品経済の浸透→貧富の差拡大、小作人出る。『通俗道徳』=大原幽学や二宮尊徳らにより広まる(☆ピューリタン資本主義)が、「こうした経済の構造的な変化に伴う貧困を、個人の生活態度だけで解決するのは困難を極めた。」通俗道徳から逃げる?ように、飲んで騒ぎたい→「ええじゃないか」世直し的要素を持った踊り
§1 新政府反対一揆―近代化政策への反発
 ・廃藩置県・徴兵令・学制・賤民廃止令・地租改定という明治新政府の一連の政策に対しての一揆の総称
 ・「近代史研究者の今西一は、領主に仁政を求める江戸時代のお百姓意識は、反面では新政府反対一揆につながる賤民身分への蔑視を含んでいたと指摘する。」被差別部落襲撃が行われた理由。異人・血税
§2 秩父事件 1884明治17年11月4日 の蜂起、3日間の天下、検挙者7000人以上、借金10年据置等で蜂起。
 ・「困民党の総理に田代栄助(富裕な博徒)を迎えた、・・親分肌と結集力、そして義理人情を重んじる気質などが、民衆の蜂起に欠かせない要素であった。」 自由民権家の自由党員もいたが、主導はしない。
 ・「人々の生業を成り立たせることへの配慮がなされずに(近代的な金融機関など)、土地を失い、小作農となる農家が急増した。富裕者・治者にあるまじき、無慈悲で徳のない裁きが蔓延したといえる。秩父事件は、近世以来の慣習がベースにあったためと言える。負債農民騒擾で、蜂起まで発展したもの。
§3 都市暴動、デモクラシー、ナショナリズム 日比谷焼き討ち事件を読みとく  
・1905明治38年9/5日比谷公園で、国民大会の開催が端。暴動、二晩で東京市の警察署2カ所、派出所・交番など220か所焼失。
・時代背景―日露戦争は日清戦争に比してはるかに規模が大きかった。戦争報道への強い関心から、メディアが急速に発達し新聞・雑誌の購読者数が飛躍的に伸びた。1899年帝国議会が開設されたが、日露戦争期の男性の多くは、二つの戦争を乗り切るための兵役・納税の義務を負う一方で、選挙権はなかった。
・≪都市暴動はデモクラシーか≫ 戦後の歴史研究は、日露講和反対運動とそれに端を発した日比谷焼き討ち事件事件を「大正デモクラシー」の出発点と位置付けてきた。・・未熟の形態ではあるものの、民衆が示威運動をした点で政治な覚醒であり・・というのが通説的な見解であった。・疑問がわく・・暴力をふるった人々には、国民大会を開催した団体とは異なる、独自の論理があったのではないか。」
・「警視庁は前日に、国民大会の開催禁止を決定していたが、日比谷公園に多くの人々が集まり、警察と衝突・・国民新聞社を襲撃→内務大臣官邸襲撃放火→軍隊→付近の交番襲撃(220か所)、路面電車の放火、キリスト教会各所襲撃・放火延べ20か所。焼打ちという行為が、異なる人の手から手へとリレーされるように、東京の街路を移動していった。☆何故暴れまわったか?
・「賠償金が取れず、領土の割譲も樺太の南半分にとどまるというポーツマス条約の内容は戦勝報道が続けられていた当時の日本国民を大きく落胆させた。人々の間に広まったのは厭戦気分であったのか?・・政府の御用新聞と目された『国民新聞』を除き、ほとんどの新聞が条約の内容に反対し、条約を破棄することを社説で主張した。」 戦勝報道と提灯行列・☆メディアが戦争を煽った。「戦争を遂行しうるナショナリズムは、誰かを露探(ロタン・ロシアのスパイ)と指さすことで作り出されてもいた。
・「なぜ暴動発生の経緯を知らない人までもが、急に焼打ちに加わったのだろうか」・・
・「近代の中で再編された社会的な序列、都市社会の不安定な状況に加え、通俗道徳の裏返しとして形成された生活文化、そこで培われた男性労働者の一発触発のエネルギーと暴れる身体、デモクラシーナショナリズムといった鋳型には収まりきらない諸要素が、一連の都市暴動の核となっていた。」「そのエネルギーへの突然の噴火は、国民大会の主催者や多くの知識人の想像を凌駕する出来事であった。」
・≪国家を引き締める≫ 国家の側も、対処するに、民間の中に自警組織を・・「民衆の警察化」→青年団、在郷軍人会。「準警察・準軍隊の組織が地域に恒常的に存在するようになったのである。」  ☆関東大震災時の朝鮮人大虐殺に繋がっていくことになる。
§4 関東大震災時の朝鮮人虐殺  1923年9月1日 地震
 ・「デマ(朝鮮人暴動、井戸に毒等)の発生源を厳密に特定することは飼料的に難しい。が研究上、見解が一 
  致している点=震災当時から警察が朝鮮人に関する流言・誤認情報を率先して流し、民衆に警戒を促したこと。」 9/3に、内務省警保局(警察を取仕切る官庁)より各地方長官に、「朝鮮人が暴動を起こした」という電報を送る。9/2、3、4と東京市と周辺地域に戒厳令を施行。「あたかも本当に朝鮮人が暴動を起こす(起こした)かのような状態がつくり出された。これが、軍隊・警察・民衆から朝鮮人を殺害することへのためらいが払拭された原因といえる。」
・司法省の調書で、震災時の朝鮮人の罪を犯した人数140人というが、石橋湛山は当時書く『…かくては、その犯罪者が果たして鮮人であったか、内地人であったかもわからぬわけである。』(震災後3カ月間、東京市で窃盗犯罪4400件)…「したがって、≪朝鮮人が暴動を起こす≫という流言は、実態のない想像上の産物に過ぎなかった。日本の政府・警察・軍隊・民衆は、想像上の≪テロリスト≫から日本を守ろうとして、生身の朝鮮人を殺害していったのである。」
・1910/8月、韓国併合、植民地に。日本の統治は、朝鮮の慣習も破壊した。統治者による一方的な生活・慣習の改変であり、収奪であった。(☆梶山季之の小説・李朝残影参照)→朝鮮独立への運動1919年「三・一運動」・「虐げられた民衆の激情の爆発」←日本、軍事的な強制措置によって鎮圧。死者数7500人、官憲側7人☆植民地支配の権力なんでしょう。3.1運動当時の朝鮮統治者が、大震災時の治安維持を担う。3.1運動後、「不逞鮮人」の言葉が、はやる。
・「植民地を支配する側が被支配者に対して抱く反乱の恐怖と嫌悪が、帝都の警察機能が麻痺した状況で前面に現れたといえよう。」
・≪東京での虐殺≫ 荒川放水路沿い等、多くの地域住民の目撃。自警団だけでなく、軍隊も。「官民一体の虐殺」。「官憲が流言を広め、軍隊が戒厳令を布き、朝鮮人を殺す。こうした公権力の直接的な関与が、多くの日本人に流言を真実だと信じさせる結果となったことは想像に難くない。」
≪千葉での虐殺≫ 「自警団による虐殺が多かった」「軍関係者が民衆に暴力行使を許可したことが、虐殺につながった。「北総鉄道の工事現場で働く朝鮮人労働者を、自警団が針金でしばって船橋警察署に連行したところ、東京の避難民が『そんなやつらたたき殺してしまえ』といい、それを機に暴行が始まったという証言がある。」等々
≪埼玉での虐殺≫ 「自警団は各駅で降りて来る罹災者が日本人であるかどうかチェック、日本語が怪しければ、警察に連行か、その場で暴行か・・」「本庄警察署では、警官の制止を振り切って、自警団が本庄署内に侵入し、保護されていた朝鮮人を殺害した、・・軍隊が駆けつけて収束を見た。ここでは軍隊が民衆の虐殺を制止した。」 自警団は竹槍、鳶口、日本刀で武装。「かろうじて生き残った人々の証言によって、虐殺の実態が明らかになった。」
≪虐殺の痕跡を打ち消す国家≫ 9/5、山本権兵衛内閣は方針転換、告諭「民衆自ら濫りに鮮人に迫害を加ふるが如きこと」を戒める内容。海外からの批判を回避のため。また地方長官に対して流言を流布する新聞記事の差し押さえを命じた。」 
・殺害者数の検討― ①司法省は合計230人 ②吉野作造ら調査 2613人 ③在日朝鮮○○班調査、6661人 、焼いたり、埋めたりしたから把握できない・・「本庄署の巡査は『数が分からないようにしろ』という『お上の命令』を受けて・・、このように警察・軍隊によって意図的に遺体が隠蔽されたからである」
 「権力犯罪が、権力側の資料に正確に記録されることはまれである。」
・≪自警団だけが裁かれる≫ 「裁判でも公権力による殺害は不問に付された」 自警団「実際に殺害に携わった人数は多かったにもかかわらず、裁判掛けられたのは、ごく一部であった。・量刑の軽さも指摘できる。・ただし、朝鮮人と間違えられて日本人が殺された事件(福田村事件)の場合、懲役10年の実刑が言い渡されている。(対朝鮮人の場合2~3年執行猶予付き)
§5 民衆にとっての朝鮮人虐殺の論理
≪加害の論理にせまる≫ これまでの研究は「植民地に対する蔑視と、三・一運動をきっかけに『不逞鮮人』という語がメディアを通して広まり、朝鮮人を「テロリスト」と見なす偏見や嫌悪感が生じたことと、日本民衆が震災時の朝鮮人虐殺を『天下晴れての人殺し』と捉えていたことに注目している」 横浜市震災誌より『労働者風の男が、その仲間と話してる/・・俺は今日まで六人やりました/そいつは凄いな/何てっても身が護れねぇ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでさぁ。』 「戒厳令の施行や軍隊の言動が、民衆のこのような認識をつくり出したといえる。」
・≪虐殺の現場≫ 「『朝鮮人暴動』のデマを信じてしまったからというだけでは片づけられない残虐さが、ここにある」
・≪恩賞にあずかる≫ 「国家に委託された暴力であるがゆえに、・・熊谷でも、虐殺後に、恩賞にあずかりたいと届け出が出されていたというから、虐殺を誇る意識は広く共有されていたと思われる。」
・≪民衆暴力としての共通性≫ 「警察による日常生活の統制に対して、民衆からの不満・反感を持ち、暴力が湧きあがった際に、警察に矛先を向けていく。」本庄署の襲撃と焼打ち未遂がその例。「権力に反発する意識と多民族などを差別する意識は、一人の人間や社会集団のなかに矛盾なく存在し、ひとたび始まった暴力を契機に、両方が引き出されることがあり得るからだ。」
◎「関東大震災時には、暴力の正当性を独占していたはずの国家が、民衆にその正当性を委譲して、『天下晴れての人殺し』の許される状態が作り出された。この時、民衆からは朝鮮人に対する蔑視や敵意に加え、男らしさというジェンダー規範、国家に貢献することへの誇り、人を殺すことへの残虐な好奇心などが湧きあがった。殺害のあとには、復讐されることの不安に駆られ、虐殺はいっそう徹底的なものになった。」
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・ラスト「過去の民衆暴力を見る視線を研ぎ澄ませれば、現在を見る眼も磨かれる。民衆暴力をネガテイブに捉える機制を見抜き、暴力をふるう行為者に即した理解を試みること。そして、権力を乗り越えようとする民衆の力がどのように発揮され、同時にどのような存在を切り捨てていたのかをしっかりと見据えること。・・・そのような視座から歴史を見ることで、・・紡ぎ直し、編みなおす力が得られるように思う。」
☆著者・学者は、種々資料を読み解き、現代の人の認識に役立つように、民衆史を著述する、凄いなぁー。
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【山好き、旅好きの団塊世代日記】 当ブログは2007/1/29に運営開始いたしました!





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高田 学

Author:高田 学
少年時代は海と戯れ鎌倉育ち、故郷を離れ北海道で学業。その後東京にて工務店経営。
環境(省エネ)には特に詳しい。廃業後自由人。

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